「超本気の過程がないと活躍なんでできない」ことを、「結果なんて出せない」ことを。 そんなことを言うと変なヤツに思われるから、みんな言わないだけなのだ。
僕は住友商事に就職したが、入社前から将来は独立すると決めていたため、出世よりも、「自分のやりたいシゴトを思う存分やりたい」と、いつも思っていた。 最も厳しい環境で、「自ら新しい事業を生み出す」ということを、机上ではなく、実際のビジネスを通じて思う存分学んでやろうと思っていた。
そうすることで自分を鍛えていこうと思っていた。 思う存分できるようになったと自分で確信できた時、それが自分にとってのブレイクポイント(独立のタイミング)だと思っていた。
学生時代から、本質を押さえることと発想と行動力には自信があった。 クラブ活動でも遊びでも研究でも、いつも自分の思いどおりにやっていた。
正直言えば、実はそんなにがんばっているつもりはないのに、それでそこそこうまくいっていたので、自分はシゴトもできるものだと思い込んでいた。 しかし、就職してみて、シゴトの世界ではそれまでの自分がまったく通用しないということをいやというほど味わった。
入社して1年弱は、思いどおりにならないことだらけだった。 今だから一宮守えるけど、悔しくてベッドの中で泣いたこともあった。
学生時代のサークル活動や遊びゃ研究と違って、大人の社会でやりたいシゴトを実現するためには、たとえどんなに斬新な発想も企画も、説得力のあるものでなければ、誰も動いてくれない。 人間としても、知識の函でも、信頼されるに足る自分になっていかなければ、誰も聞いてはくれない。

行動力がいくらあっても、勢いちみつだけではどうにもならない。 やっぱり綴密な努力があって、初めて人を動かすシゴトができるのだ。
それに気がつくまでは大いに悩んだ。 何とか思いどおりにシゴトができるようになるために、いろんなことを考、ぇ実行もした。
「俺はできるはずだ」と思い上がっていた自分を捨て、自分は何もわかっていない「全裸の状態」であると位置づけ、「よっしゃ、俺はすべてを捨て、一から学んでやろう」という、自分をゼロにする半分破れかぶれの作戦だ。 自分は「全裸」なのだから、恥ずかしいものは何もない。
何でも話せた。 何でも聞くことができた。
そして、上司の話や考え方、新しく知ったこと、気がついたこと、思いついたことなどを、すべて大学ノIトにメモしていった。 週間で1冊ぐらいのペ−スでどんどん書いていった。
家に帰って、それを何度も見直し、「なるほど、これは覚えておいて損はない」ということは蛍光ペンでマークして覚えた。 納得できない上司の考え方の横には、自分の思いや考えも書き込んでいき、翌日上司にぶつけた。
失敗やミスをした時は、なぜ失敗したのか、その時、自分はどう考えてそうしたのか、足りなかったのは何なのか、知識なのか、考えの深さなのか、執着心なのか、伝え方なのか、人間性なのか、考えた末に書いた。 調べた。
うまくいった時(そんなことはほとんどなかったけれど)は、なぜうまくいったのか、その時自分はどう感じたか、さらにうまく生かすにはどうすればいいのか、書いて寄いて書きまくった。 今思えば、この、自分の経験や考えを何でも書き込んでいったことが、あとで出てくる「我究ワ−クシ−ト」の原点であった。
「全操作戦」を実行してから数カ月後、自分の考えが学生時代と比べて数段深く、そして多角的で、的を射る(本質をとらえる)ことができているのに自分でも気づいた。 すると、それまでろくに話も聞いてくれなかった上司を説得できたり、決して通らなかった企画がすんなり通ったり、会議を自分の考えている方向に導けたりと、何もかもが思いどおりに動くようになっていったのである。
今でも、ノ−トを常に持ち歩き、何でもメモする習慣は続いている。 また、新しいことを始めたり、なかなかうまくいかないことがあると、あの時のことを思い出すようにしている。

別に、苦労話や自慢話をするつもりはない。 ただ、「がんばったら、がんばっただけのことはある。
がんばらなかったらそれまでよ」ということである。 それがシゴトであり、「社会」なのだ。
もっと言えば、「力があればうまくいく。 力がなければうまくいかない。
力をつけるには本気でやるしか方法はない」「社会」とは、そういう当たり前のところなのだ。 だからといって、努力すれば何でもいいというものではない。
努力の仕方を間違えて、やみくもにがんばったところで、それはただの無駄な努力になってしまうのは試験勉強と同じ。 長い目で見れば、無駄な努力など存在しないのかもしれないが、就職活動をはじめ、世の中のほとんどのことには締め切りがある。

チャンス、すなわち戦略に基づいた努力という一定の期間を過ぎて努力が実っても意味がない。 要するに「本質をとらえた、効率的で、的を射た努力」が必要なのである。
よく、就職活動に失敗した学生が寂しそうにこう話す。 「やる気とがんばりだけでは、どうにもならないものがあるんですね。
社会の厳しさを知りました」残念だ。 彼にどれだけのやる気があったか定かではないが、彼はがんばるべきポイントとがんばり方を間違えたのだろう。
彼のがんばりが内定という目標の本質をとらえた、内定に直結した戦略的な行動であれば、結果は違っていたはずだ。 僕は自信をもって、そう断言できる。
本質をとらえるとは、どういうことか自分の頭で考えよう技術的なことを含めて、方法を誤ることはきわめて非効率的だ。 しかし、効率的な方法をとることだけで結果を出せるのは、暗記したことを答えるペーパーテストぐらいなものだ。
「本質をとらえたことをやること」に加えて、「自分の頭で本質をとらえていくこと」が必要であることを重ねてきみに伝えたい。 この本も含めて、きみもこれからいろんな人にいろんなアドバイスをもらうことだろう。
そこで忘れてはいけないことは「言われたことをちゃんとやればいいということではない」ということだ。 ありとあらゆるアドバイスに対し、「なぜそう言われたのか、なぜそう言ってくれたのか」そこ(本質)をきちんと自分でとらえられるヤツにならなければ。
「メモを取れ」と言われたからといってただメモを取っていても、あとで見返さなければ意味がない。 また、そのメモでさえ、結果として言われたことだけをメモしていでもあまり意味はないだろう。
なぜそう言われたのかを押さえること。 そして、そのアドバイスが本当に自分にとって的を射ていることなのかを、自分の頭で吟味することが大切なのだ。

それだけではない。 さらに「もっといい方法を自分で思いつくこと。
提案できること」が実は必要なのだ。 どんなに優れたマニュアルも、それが自分にとって最高のものではあり得ない。
自分にとって最高のものを自分で提案する能力も必要なのだ。 自らの頭脳を駆使して、自分にとって最高の新しいマニュアルをつくり出していく能力が、結果を出すために常に求められるのだ。
本質をとらえ、自ら問題意識を持とう例えば、ここ数年、就職活動する学生に「自己分析ブ−ム」が吹き荒れている。 自己分析することには確かに意味があるのだが、「自己分析さえすれば内定できる」と思い込んでいる学生が少なくないようだ。

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